【作文清書】自分にできること

jibunnidekirukoto

わたしは最近自分にできることは何かをよく考えている。

50歳を過ぎると、できないことをこれからできるようにする時間はないように思えてきたからだ。
しかし、あらためて自分にできることと考えてみると、案外思いつかないものである。

思考停止と謙虚さは紙一重?

「能ある鷹は爪を隠す」ではないけれど、自分の長所を自慢するのはいただけない、という気持ちが邪魔をするのか、どうもわたしは自分にできることは自覚すまいとしてきたようだ。

人間は愚かな生き物である。得意なことが少しでもあったら、つい余計な自慢を言いたくなる。少なくともわたしはそうだ。自慢できるものがないならないで、謙虚なふりをしていれば体面が保てるというもの。不快な自慢を避けるには、自分の得意に無頓着になるのが一番都合がよかったというわけ。

と、そこまで考えていたわけではないけれど、自分の得意を洗い出すような作業自体、なんだかおこがましいように思っていた。ただめんどうなだけ、というのも正直な話。

手持ちのモノを活用するために

ところが、仕事となるとそうも言っていられなくなった。

マーケティングとやらでは、自分の強みをことさら分析するのに驚いた。というよりちょっと引いた。

自分にできることや長所を洗いざらい書き出すようなことがしばしば行われる。

こういうものが何の躊躇もなく埋められないと、仕事では勝ち残れないものらしい。

わたしは昔から競争するのが苦手。勝てないからと言われたらそれまでだが、何でもかんでも競争しなくてもよさそうなものである。

とはいえ、自分が比較的苦労なくできることを知っておくというのは悪いことではない。

むやみに競争するのは好かないけれど、活躍できそうな土俵をどうにか見つけられたらおもしろいのではないか。それぐらいの世渡り術がなければ楽しく暮らせない。

どんな得意なことがあったとしても、おそらく上には上がある。得意を磨いていくには、さらに知らないことやできないことを学ぶ必要があるに違いない。
ということは、自分にできることを極めるのも、できないことをできるように努めることとたいしてやることは変わらないのである。

だったら自分が持ってるものを自覚して、それをとことん活かすことに励むほうが得策ではないか。

持っていないものを嘆いて愚痴る暇があったら、自分の棚卸しでもして、できることを見つけたい。
50歳を過ぎて今さらと思いながら、残りの人生何ができるかを思案している。

おかし

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