久しぶりに近所の書店に行くと、見覚えのある婦人の姿を見つけました。
ぜったい知ってる人です。いつか話したこともある人です。
そこまでわかっているのにわたしときたら、どこの誰だったかどうしても思い出せません。
似たようなシーンを健康番組で見たことがありました。
確か脳の認知機能が老化してきている症状だったような。
そうなんです。わたしはかなり忘れっぽい。
せっかくおもしろい経験をしても、わりとあっさり忘れてしまう。
そして今度いつ思い出すか見当もつかない。
多かれ少なかれ、人はどんどん忘れるようにできてます。
でも、こうした身近な身の回りのできごとが一番いい作文の種なんですよね。
そのことに気づいて以来、わたしは日記をつけてます。
日記はエピソードのネタ帳
大好きなプレバトの俳句で、志らくさんが
「働くと書くだけの為日記買う」
と詠んでました。
日記なんて書くことないって思ってる人、多いかもしれませんね。
毎日変わり映えしないから。
毎日おんなじことの繰り返しなんて言う人もいます。
だけど自分は同じことをしていても、じつはけっこういろんなことが起こっていたりするもんです。
たとえば、
・突然電球が切れた。
・近所の人に不用品のCDセットを押し付けられた。
・燃えないゴミの日に壊れたパソコンのキーボードを出そうとしたら、見張りをしていた町内会長さんに「これはリサイクルゴミ」と言われて却下された。
・電気代が心配。
などなど。
人には言えない野望やねたみなんかを思わず書いて、あとで後悔するなんてこともよくあります。
だけど日記に書いたできごとを、いつか何かの作文で使ってやろうと思うようになって以来、感情的なことは役に立たないし、読んでて気持ち悪いのであまり書かなくなりました。
案外日記は日常のできごとを淡々と書き留めたもののほうがおもしろい。
思えば作文は自己紹介しているようなもの
ふつう作文には書いた人がそこはかとあらわれるものです。
そういう意味で、作文は自己紹介してるのと同じようなものかもしれないです。
作文は身近なできごとを書くのが一番おもしろいので、作文の種は誰でも持っていると言いました。
でも、持ってるものを必要な時にパッと出すのがむずかしい。
この頃のわたしは「ほら、あれ、なんて言ったっけ?」みたいなことだらけ。
だから日記を書いてます。
日記に限らず、書く習慣は何かと役立ちます。
人間知ったことは誰かに教えたくなるものらしいですから、作文の種がたくさんあればあるほど作文が書きたくなるわけです。
話すのが得意でない人にとって、作文はむちゃくちゃ頼りになります。
知ってることを伝えるついでに人となりまで伝えられたら、これって会って話すのと変わらない武器と言えなくもないではないですか。
それに作文はすべての勉強のベースになる力を持ってるってこと、あまり知られてません。
それどころかないがしろです。
もったいない。
作文はすべての勉強の基本
元作文教室の講師が言うのもなんですが、作文は教えてもらうものではありません。
ただ自学自習をベースに、書くのを手伝ってくれるサポーターがいるといいです。
作文は読者がいると上達するからです。
また読書も作文力を上げるいい方法の一つです。
英語やプログラミングを学ぶのもいいですが、作文力の底上げをするほうが効率よく学べるように思います。
作文はほかの勉強レベルを上げることにつながるからです。
何か一つ勉強するなら、作文力をこつこつ積み上げていくのがおすすめです。
まとめ
ところで書店で見かけたその婦人、幸いわたしに気づかないまま通り過ぎ、事なきを得ました。
同じ町内会のご近所さんだったことを思い出したのは、しばらくたったあとでした。
ちょくちょくお世話になってる人です。
失礼なことにならなくてほんとよかったです。
身近なできごと、こんなふうに記事にすることもできます♪
作文は自己紹介してるようなもの
- 身近なできごとを綴った日記は作文の種の宝庫
- 作文には人柄があらわれる
- 作文はすべての勉強を底上げしてくれる
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